■「太陽」のために「日」を見なかった小説
有名人物の自叙伝と回顧録を専門に出版する元a出版者(代表:朴永勳)は、1999年11月に、「声なき戦争」という小説を出版した。この小説は、北朝鮮の対南浸透工作の核心にあったが、帰順した工作員金用珪氏が北朝鮮で見聞きして、直接参与した対南工作事例を小説形式を借りて、公開した実話小説である。初版5,000部を刷ったこの実話小説は、出版1年6ヶ月余りが過ぎた今まで、再版でき
ない位、別段の注目を受けていなかった。元出版者のある関係者は、「元来、この小説は、政府某機関で出版しようとしていた小説」とし、「現政府になって、太陽政策が本格化し、出版しないことを知らされた」と語った。
金用珪氏から原稿を受け取り、内容を検討した元出版者側は、商業性よりは、「このような本は、広く読まれなければならない」という次元で出版を決心し、1999年11月に初版を発行した。しかし、「広く読まれるようにしなければならない」という次元で出版したこの本に対して、出版者側は、別段の広報活動を行わなかった。元出版者関係者は、「外部から『声なき戦争』を広告するな、という干渉や、圧力はなかった」とし、「ただ、小説出版当時、本格化した太陽政策を意識しないわけにはいかなかった」と明らかにした。この関係者は又、「軍人が読まなけれならない本という判断で、軍が運用する陣中文庫に納品を申請したが、受理されなかった」とし、「過去には、軍で一部でもこのような本を購入して、将兵が読むようにしていたことが知られていたが、何故、納品申請が拒否されたのか理解できない」と付け加えた。
一体、「声なき戦争」は、どんな内容を盛っていることで、政府某機関が政府の太陽政策を意識して出版を取り消し、本を出版した出版者も、政府の太陽政策を意識しないわけにはいかなくしたのか。太陽政策に反する内容、北の赤化統一のための対南工作がどの位執拗で、徹底して行われているのかを、この本が見せているためだったのではないのか。この本は又、北朝鮮が1960〜70年代の対南工作を通して、政官界を始めとし、宗教界、言論界等、韓国社会の要職内部奥深くに親北人事を浸透させたという主張を盛り込んでもいる。
この本の副題は、「対南工作秘話小説」である。著者金用珪氏は、この本において、統革党工作、朴正熙大統領を始めとする我が政府要人の殺害を目的にした慶煕宮爆破企図事件、李厚洛前中央情報部長拉致企図事件等、北朝鮮の対南工作事例を紹介している。特に、李厚洛部長拉致企図事件は、金氏が担当したものと記述されている。小説の中に登場する人物の実存の可否及び対南工作事例が事実なのかの可否を訊ねるために、記者は、金用珪氏にインタビューを要請した。金氏は、「現在では、インタビューに応じることができない」とし、事実の可否を訊ねる質問に対して、「私は、嘘を語らなければならない理由がない人間」という簡略な言葉で、小説の中の事例が実際に起こった事件だったことを認定した。金氏は、これ以上の電話通話を許諾しなかった。
李厚洛前中央情報部長側に事実確認を要請した。李前部長のある周辺人物は、「その方は、今、京義道湖南に居住しており、最近、目の手術を受けたが、巷に知られているように健康が余り悪くなく、周辺の人々と碁を打ち、談笑する程度の健康を維持している」という近況のみを伝えた。北朝鮮の拉致企図事件に対しては、「現在では、確認する術がない」という立場だった。記者は、1978年に李前部長が無所属候補として国会議員に出馬した頃、金用珪氏と彼の地域区である蔚山で会い、自身に対する北朝鮮の拉致企図事件に対して話し合ったということを周辺取材を通して確認することができた。
■同僚工作員2人を射殺して、帰順した男
金用珪氏が帰順直後に出版した手記「時効人間」と対南工作秘話小説「声なき戦争」において、金氏が証言している統革党試験、慶煕宮爆破企図事件、李厚洛拉致企図事件等を紹介する。「時効人間」では、李厚洛前中央情報部長をL氏と称している。金用珪氏は、1936年にソウルで生まれた生粋である。ソウル中学校2学年に在学中だった1951年3月、敗走する北朝鮮軍に拉致された。僅か15歳で家族と離れることになった。
拉致後、金氏は、526軍部隊ルート工作員になった。「時効人間」において、金氏は、拉致以後の生活に対して、「初めは、そのような宣伝に傾いたが、彼らの主張が正しいことを知り、彼らの言う通りに盲従盲動させられ、更に他人になることを厭わない天性の気質で賞賛を受け、後に、『良くすれば、良くなる』として、持ち上げられる勢いに意気揚揚、死ぬほど焦った」と告白している。「死ぬほど焦った」結果、金氏は、金剛政治学院、中央党学校を卒業し、金日成大学哲学科に入学する等、順調満風だった。順調満風だった金氏は、金日成大学を卒業できないままの状態で、1957年南労党2次粛清時、文川機械工場の労働者に左遷された。韓国出身という理由だけで、命をかけた忠誠の代価を弊履のように捨て去る金日成独裁体制に幻滅を感じ始めたのは、このときからである。
しかし、生きなければならなかった。幻滅を感じながら、彼は、熱心に働き、その結果、文坪工大機械製作課を卒業した。党に対する忠誠心を再び認定された彼は、労働党連絡部所属工作員に選抜され、金日成軍事政治大学に入った。平壌市龍城区域北部外郭地帯の面積300万坪を占めるこの大学は、対南工作員養成基地だった。金氏が再び対南工作員に選抜されたのは、1967年6月だった。
以後、金日成軍事政治大学1年を修了する等、大韓民国に帰順した1976年9月までの10余年間、対南工作活動に入った。金氏は、帰順するときまでの10余年間、固定間諜同伴越北等の任務を帯び、7回南派された。南派工作の成功により、いわゆる「共和国英雄」称号を受け、指導核心のみがなることができる工作組の組長となった。韓国で言えば、「次官級待遇を受ける」核心的な位置に上ることになった。
労働党連絡部において、核心的な位置を占めたおかげで、彼は、各種秘密資料に接することができた。金日成軍事政治大学指導核心班には、過去、対南工作で成功した経験と失敗した事例を収録した「工作経験集」が極秘文庫に備え付けられていたという。金氏は、この「工作経験集」読むことができる位置にあった。「声なき戦争」に出てくる各種工作事例も、正にその「工作経験集」に収録されたものである。「次官級待遇を受ける」核心的な位置にいたが、1度左遷の経験を持っている金氏は、常に不安だった。周辺で、「利用されるままに利用され、捨てられる」韓国出身者の末路を数え切れず目撃し、いかにもがいても、自身の出身成分は、「南韓出身」である外なかったためである。機会を窺った。7回目の南派工作目標は、巨済島にいる固定間諜の娘を越北することだった。金氏は、その機会を活用することに心を決めた。1976年9月19日2130、金氏は、他の工作員2人と共に、島に上陸した。帯同して越北する固定間諜の娘がいる対象家屋に向かった。金氏の頭の中は、複雑だった。浸透のため南浦港を出発するときから既に帰順を決心した金氏としては、他の2人の工作員も説得して、一緒に帰順して欲しかった。
対象家屋には、来客が来ていた。帰順を決心した金氏としては、そんな考えもなかったが、帯同越北は、不可能だった。案内員と接線することにした場所に動いた。道を進みながら、2人の工作員を説得することにした。万一に備えて、拳銃の安全装置を解いた。歩みを止めて、2人の工作員の方を向いた。
「ここに一緒に残ろう」と語った。暗闇の中にいる彼らの表情を読むことはできなかった。黒い影が彼を襲った。拒否の身振りだった。反射的に、すぐさま黒い影を蹴飛ばした。同時に、引き金が引かれた。
けたたましい銃声が巨文島の夜空を割いた。短い連発射撃で、2名は、同時に倒れた。
鞄から全ての紙を抜き出した。さっきまで同僚だった2名の工作員は、冷たい死体となり、金氏は、自由に向かって初めて歩みだした。この日帰順した金用珪氏は、母親等、韓国で暮らしている家族と再会し、北朝鮮の対南工作を研究する専門家として活動している。
■統革党事件
統一革命党(統革党)事件は、南派間諜に包摂された金鍾泰が4回北朝鮮を往来した後、国内に潜入、統革党を作り、学園、労働、宗教等のサークル形態の小組織とソウル市内に数ヶ所の学舎酒店を運営しつつ、宣伝・煽動活動を行ったが、中央情報部に摘発された事件である。1968年8月に摘発されたこの事件により、ソウル市党責任者金鍾泰、民族解放戦線責任秘書金ジラク、全南道党創党準備委員長崔ヨンド、チョンメク紙編集長李文奎等、計158名が検挙され、73名が送致され、50名が拘束された。金鍾泰がこの事件で死刑を受けるや、北朝鮮は、群集大会等、大々的な追悼式を行いもした。北朝鮮は、1994年にも、間諜を送り、金鍾泰の妻等、遺族の所在を確認したという。中央情報部の発表と異なり、この事件に連累され、服役した後、出所した人物の中では、統革党が北朝鮮労働党とは、無関係な組織だという主張を展開していることが知られている。
金用珪氏は、「声なき戦争」と「時効人間」を通して、統革党組織が北朝鮮労働党の主導で作られたと語っている。
金氏は、2冊の本において、「統一革命党は、1961年12月、全南務安郡任子島において、面長をしていた地方有志崔ヨンドが、甥である南派工作員金スヨンに包摂されて始まった」と明らかにしている。崔ヨンドは、3回に渡り、平壌を訪れ、労働党にも入党した。全南道党責任者となった崔ヨンドは、地下党組織網を拡散する一方、過去、労働党から全南道党委員組織を任されたが、捜査機関に逮捕され、10年の刑を受けてきたチョン・テムクを再び包摂するのに成功した。北朝鮮は、崔ヨンドの組織を全羅南道指導部の正組織に、チョン・テムクの組織は、候補組織に二元化して管理し、組織を拡散させた。労働党連絡部から、ソウルの有力人士を包摂しろとの指示を受けた崔ヨンドは、甥である金スサンを立てて、金鍾泰を包摂もした。反政府感情を持っていた金鍾泰は、むしろ本人がより積極的に北側と線を拡げてくれと要請したことによって、包摂は容易く行われた。平壌に密入北した金鍾泰は、間諜教育を受ける一方、金日成と会いもした。間諜教育を受けた後、再び韓国に戻った金鍾泰は、金ジラク、李ムンギュ、李チニョン、イム・ジニョン等、親戚、親友等の側近を容易く糾合し、統革党ソウル市指導部を構成した。一方では、学舎酒店、新文化研究会、チョンメク会等のサークル団体等を組織、運営しつつ、反政府感情を引き起こすための宣伝活動を行った。しかし、1968年8月、中央情報部により、組織が摘発されたことによって、統革党を赤化統一の前進基地に考えていた北朝鮮の計画は、一旦挫折した。
金氏は、自身の本において、北朝鮮が統革党再建のため、継続工作していることを明らかにしている。1973年7月には、自身が直接統革党再建工作計画に参与した事実も一緒に記している。包摂対象は、過去、金鍾泰と連携していた人物達だった。統革党再建計画関連して、金氏は、「声なき戦争」において、興味深い事実を語っている。北朝鮮の工作網が我が社会のどの場所にも延びていることを示す題目があることである。
「このように、2名が昼と夜に引き続き、指示文を全て解読して送るが、それは、その間、平壌の工作チームが各々管理していた一部現地組との接線暗号と特定組織員の記録対象であった。記録対象には、発電所、電信電話局等、重要部門に点形態で特別管理されていた個別的対象もあり、2〜3名又は4〜5名で構成された組織もあった。その中には、最近構成された組織もあり、1960年代初・中盤に布置された教授と博士で構成された組織、言論界
・宗教界・公共機関、そして各団体に定着した組織もあった。パックンは、記録対象に数名の知っているだけの人物の名前が目に止まるや、驚きの色を隠せなかった」。
「チョンス!何故、そんなに驚くのか?」
「このような方達も、既に北と線が連結されているのですか?本当に、私は、このような著名人物達がそのような活動をそのような活動を行っているとは、夢にも考えられない」。
「チョンス!今、我々が解文したこの記録対象は、ほんの一部分にしか過ぎない。そして、チョンスは、この数名を見て驚いているようだが、それよりも重要な権力核心部にも少なからず布陣されているのを知れば、後でバタンと倒れるでしょう!」
■李厚洛を拉致せよ/「国会に、教会に浸透せよ」
朴正熙大統領等、政府要人殺害工作と、李厚洛前中央情報部長拉致企図工作に対しても、金氏は、詳細に説明している。
1974年8月13日夜12時、ソウルに南派されていた北朝鮮工作員は、「8.15光復節行事と関連して、中央庁周辺に接近せず、48時間無休状態で次の指示を待つこと。健闘を祈る」という非常電文を受けた。そのときから48時間たった8月15日夜12時までを目論んで、光復節行事を狙った重大なことがあることを暗示するものだった。中央庁付近に接近するなということは、その周辺のどこかで、危険なことが起こるか、その危険から地下党を保護するためのものだった」。
南派工作員が非常待機していた8月15日1030、消息は、平壌からではなく、KBSラジオから来た。文セグァンが朴大統領を狙撃しようとして失敗し、代わりに夫人である陸英修女史と女子高生1名が死亡したという内容だった。事件現場も、中央庁ではなく、奨忠洞国立劇場だった。この事件により、その日の夕方に予定されていた慶煕宮レセプション等の8.15慶祝行事は、全て取り消された。慶煕宮レセプションの取消は、不幸中の幸いだった。金氏の主張によれば、毎年8月15日夕方になれば、大統領が参加する中で、慶煕宮でレセプションが行われることを知った北朝鮮工作指導部がその日に狙っていたのは、慶煕宮の爆破だったのである。朴大統領と政府要人を一瞬で吹き飛ばす計画を立てていたのである。金氏は、本において、文セグァンは、別ルートである朝総連系統を通して、複線で配置されたことによって、慶煕宮爆破計画が霧散したと主張している。「時効人間」において、彼は、1974年2月初めから、要人暗殺と主要施設爆破任務遂行のための「ラジオ爆破訓練」を受けていた中、北朝鮮工作指導部がソウル生粋である自身に慶煕宮にある各種施設の位置等を把握した事実があり、自身も慶煕宮爆破訓練を受けた事実があると明らかにしている。
しかし、訓練中、彼は、別の特殊任務を付与された。李厚洛前中央情報部長を拉致してくる任務である。
労働党連絡部チュンファ1地区5号招待所において、ラジオ爆破訓練を受けていた1974年4月3日、金用珪氏は、連絡部のA級工作員2名と共に、2号招待所に連れて行かれた。連絡部第1副部長は、党中央の指示により、李厚洛部長拉致を指示した。金大中拉致事件で公職を離れた後、海外に行っていたが、帰国した李前部長がチュンム・ホテル2階特室で休養しているとの情報が入ってきたので、この情報が報告されるや、党中央から拉致を行えとの指示が下されたということであった。
南浦連絡所戦闘員27名を含む30名で構成された特殊工作組の組長には、金用珪氏が任命された。金氏は、入手した情報が信じられる情報なのかを確認し、作戦計画樹立に入った。特攻隊の任務は、指摘された対象人物を拉致すると同時に、可能な範囲で彼の警護員、主治医までも拉致、後送しろということだった。金氏は、入手した情報と収集した全ての資料に基づき、作戦遂行に抵抗し得る力量として、拉致対象と2〜3名の警護員、主治医、運転手2名等、6〜8名の警護力量があるものと予想した。
また、これら全員がテコンド跆拳道有段者であると同時に、護身用の手段を持っているのみならず、非常信号装置があるものと判断した。
対象号室は、ホテル2階にある2つの特室の海岸側に位置した特室で、その隣接号室は、警護員と主治医、運転手が占めたものと判断した。金氏は、これらのパターンで作戦を樹立した。麻酔実習等、模擬訓練に入った。南浦市ワウ島休養所をチュンム・ホテルに仮想して、実戦訓練を行った。有事の状況を作るため、社会安全部李ミョンソン(中将)を実験対象にして、その隣室に7名の警護員を配置した。最高の暗号組と行動組が集められて構成された特殊工作組は、指導するとき毎に成功した。10日程度の短時間だったが、平素良く訓練された工作員だったため、動作がてきぱきしていたという。今、決行時期だけが残った。遂に、工作船2隻に分乗した工作員は、李厚洛前中央情報部長拉致のため、チュンムに向かった。工作員が中国揚子江河口の中間地点に到着したときだった。平壌から連絡が来た。拉致対象が休養を終え、チュンム・ホテルを離れたという消息だった。不体裁に状況が終了しただけだった。
状況は、簡単に終わったが、この事件は、北朝鮮の地下組織がどの位、我が社会に深いところまで浸透しているかを説明するものでもある。「声なき戦争」において、2人の工作員は、このような対話を行っている。
金:「李厚洛とは、人物がたとえ公職から離れたといっても、身分をそのまま露出させて歩かないのに、普通の人間が知るのが難しいそのような情報がすぐさま平壌に入ってくる事実は、我々ではなく、別の現地党指導部が動いているのではないのか?」
チョン:各級地下党組織を複線で配置しなければならないのは、地下党の組織原則でも、特別に強調されている内容ではないのか?だから、我々ではなく、別の指導部が2個、3個もあり得るのです」。
■「国会に、教会に浸透せよ」
金用珪氏は、「声なき戦争」の結論において、金日成が対南工作要員と談話の席上で力説した言葉を紹介している。そのまま、紹介する。
「チリでのアジェンデの経験は、選挙を通しても政権を奪取できる充分な可能性を示している。アジェンデが失敗した原因は、選挙を通して政権を掴んだ後、余りに急進的に改革を急いだが、逆クーデターを受けたことである・・・。今、南朝鮮では、金○○拉致事件により民心が傾いている。このような民心を上手く誘導し、信望の高い核心を立候補させれば、国会にも、いくらでも入り込むことができる。今から、対国会工作は、プラッチ工作に留まらず、議席を確保する工作に転換しなければならない」。
「ユ・セングン(前西ドイツ駐在韓国大使館労務官、1971年脱北)の場合を見れば、現在、南朝鮮には、高等考試に合格さえすれば、行政府、司法府にも、いくらでも入り込める道が開かれている。今から、検閲された学生の中で、頭が良く、利口な子供は、デモに出してはならず、考試準備だけをさせろ。10名を準備して、1名しか合格しなくても、初期の目的は達成される。だから、考試勉強を行う学生には、彼らが心配なく考試勉強にだけ専念できるように、物心両面で積極的に支援してやらなければならない」。
「近頃、南朝鮮で、最も入り込むのに良い場所は、教会である。教会には、履歴書や、保証書なしでも、いくらでも入ることができ、聖書でも熱心に聞いて通い、献金だけこまめに出せば、誰でも信任を受けることができる」。
父金日成から政権を引き継いだ金正日が遺訓統治を行っているのは、広く知られた事実である。
最終更新日:2004/03/19
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